身体の変化を受け入れることについて

桜の花びらが風に舞い散る風景に、満開の時とは違った華やかな美しさを感じています。

 

3月から寒暖の差の影響か体調が今一つで、ブログの更新が滞ってしまいました。

 

皆様おかわりなくお過ごしでしょうか?

 

体調不良と向き合っているなかで…というか、もがいているなかで…ふと以前何かの本で読んで心に残っていた言葉を思い出しました。正確ではないのですが…

 

「人は誰でも時間と共に死に向かっているのだから、いつまでも同じ体調のままの状態であることはない。

だから、衰えていく体力や不調を嘆くのではなく、当たり前のこととして受け入れよう」

 

…確かに。

もちろん体力や健康を維持しようと努力することは大切です。

ただ、自然には逆らえない部分があることも素直に受け入れなければならないと感じました。

 

そうでないと、一体自分の身体はどうしたんだ、と、下手に抵抗して焦ったり嘆いたり怒ったりと、溺れるがごとく無駄にバタついて消耗するだけです。

 

無駄にバタついていた自分に気づかせてくれた言葉に感謝です。。

 

「自分にも愛を。」

 

最近、テレビであるコマーシャルを見て、「ああ、そうだよな~」としみじみ思ったことがありました。

 

それは、菅田将暉さんが出演している森永乳業株式会社のコーヒー飲料マウントレーニア」のコマーシャルを見た時です。

 

他人に優しくしてあげられるのに、自分に優しくするのは難しい・・・「自分にも愛を。」という内容のコマーシャルです。

 

このコマーシャルを見ていると、自分を振り返って、人には優しく接するのに、自分にはダメ出しを連発していることに気付かされます。

 

「何でできない?」、「もっと真剣にやらなければダメだ!」などと自分には厳しく接してしまっている自分…

 

自分に対して、例えば、目標が達成できなかったとき「うまくいかなかったのは残念だったけど、充分頑張ったよね。その頑張りは次に繋がるさ!」とか、失敗した時に「ドンマイ。失敗から学べたよね。次に繋がるよ!」と、どうして言えないのだろう?

 

厳しさは更なる成長のために必要なこととは思います。

でも、いつも自分に厳しくしたり責め続けていると、いつの間にか自己肯定感が下がってしまい、自分をダメな人間だと思ってしまいます。

 

もちろん、自分を甘やかすのは良くないです。

ただ、たまには優しく自分をいたわることも必要なのでは?と、菅田将暉さんが自分を抱きしめるシーンを見て強く感じました。

 

菅田将暉さんの演技も素晴らしいですし、風景も映像も音楽も素晴らしく、素直に心に響いてきます。心に深く沁みます(CMでもこんなに心に響くものがあるんですね)。

自分にも優しくしよう!と思えてきます。

 

以下、森永乳業株式会社のホームページから

youtu.be

 

自分が凡人と感じた出来事

春めいてきたと思ったら、急に冬に逆戻りで、毎日雪が降り続いています。

体調管理が大変ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

去年からある方との関係で怒りが溜まる出来事が続いていました。

昨日は、その方に土足で家に入ってこられたと感じた出来事があり、もう絶対許せない!と頭にカーっと血が上ってしまいました。

 

頭に血が上りながら、「ここで怒りを爆発させたらまずいことになる」、「いや、今日という今日は絶対に許せない。怒っていいんだ」と強い二つの思いが交錯して、ブレーキとアクセルを同時に思いっきり踏んだ状態になりました。

 

とにかく瞬発的に怒りを爆発させないよう時間を稼ごうと思いました。

トイレに駆け込み、息を10秒数えてはいて・・・それをなんどもなんども繰り返しました。怒りでワナワナと震える手を押さえて5分くらいたったでしょうか。何とか怒りを爆発させずに席に戻ることができました。

でも、怒りで心臓はバクバクのままでした。

 

その時、やっと、以前ブログで書いた言葉を思い出しました。

 

(以下、2月12日のブログから。読売新聞の人生相談欄での回答を引用していました)

哲学者の小川仁志氏は、古代ローマの哲学者であるセネカの、怒りに関する考察が参考になると言っています。

セネカ曰く「人間は相互の助け合いのために生まれた。怒りは破壊のために生まれた」

怒りは最も避けるべき感情である、なぜなら怒りは破壊をもたらすだけだからということでこの言葉を残したといいます。

 

セネカの言葉から、小川氏は「怒るのではなく助けてあげようと思ってください。きっと理由があって急いでいるんだろうと。それこそが人間の存在意義なのです。」と回答を結んでいました。

 

私の場合、この回答を読んで、なるほどど思いました。が、頭ではわかっても素直に気持ちは簡単には変えられないような気がします。

(以上、2月12日のブログから引用)

 

このフレーズを思い出して、怒っていたら破壊に繋がっていたな・・・と少し冷静になりました。

でも、小川仁志氏が書いたように、その人に理由があっての出来事だから許すということは自分にはできない・・・と思いました。

 

そんなに自分の心は広くない。と痛感し、やはり自分は凡人であると思った出来事でした。

 

 

 

 

 

 

今朝の散歩で気づいたこと

だいぶ春めいてきました。気持ちも活動的になってきます。

 

今日散歩に出て気づいたことがありました。

その気づきについて書いてみようと思います。

 

今朝、春のような暖かそうな日差しに誘われて散歩にでかけました。

手袋はいらないだとろう思って歩き始めるとすぐに後悔しました。

日差しは暖かくても最低気温はマイナス4度。まだまだ冬でした。

 

手があっという間に凍えてしまい、寒さをしのぐためにこぶしを強く握ってズボンのポケットに入れました。

 

白い息を吐いて歩きながら、ふと手のひらを太陽の光に当てると骨粗しょう症予防になるという話を思い出しました。

寒くて嫌だなと思いつつ手のひらを光に向かってだしてみると、意外や意外、思いのほか温かいことに驚きました。

手のひら全体がほんわかと温かくなり、手をポケットに入れているよりも温かいのです。

 

すぐに思いました。気持ちも同じかもしれないと。

 

私の場合、人間関係や仕事などで辛いと感じる環境にいると、自然と気持ちがギュッと縮こまり内向きに籠ってしまいます。

実はそんな時にこそ、逆に気持ちを開いてみると、実は周りは暖かくて、縮こまっているよりもずっと居心地がよかったりするのではないかと。

もちろん状況にもよるでしょうが、そんなことを思いました。

 

うまく表現できませんでしたが、今朝の散歩での気づきでした。

 

 

 

 

 

 

怒りは破壊のために生まれた

年とともに怒りやすくなったと感じています。

車を運転していて急な割り込みや、歩いて横断歩道を渡っているときに強引に曲がってくる車に出会うと強い怒りを感じます。

 

怒っても何にもいいことはないのですが、許せない気持ちになります。昔はこんなに怒りやすくなかったのに・・・と思ったりするのですが。

 

そんなことを感じるようになっていたとき、今日(2月12日)の読売新聞の人生相談に

自分と同じようなことで悩んでいる人の相談がありました。

相談内容は、我先にと順番を守らない人に怒りを感じてしまう自分を心穏やかに過ごせるようにするにはどうしたらいいかというものでした。

 

この相談に対する哲学者の小川仁志氏の回答が参考になりました。

小川氏は、古代ローマの哲学者であるセネカの、怒りに関する考察が参考になると言っています。

セネカ曰く「人間は相互の助け合いのために生まれた。怒りは破壊のために生まれた」

怒りは最も避けるべき感情である、なぜなら怒りは破壊をもたらすだけだからということでこの言葉を残したといいます。

 

セネカの言葉から、小川氏は「怒るのではなく助けてあげようと思ってください。きっと理由があって急いでいるんだろうと。それこそが人間の存在意義なのです。」と回答を結んでいました。

 

私の場合、この回答を読んで、なるほどど思いました。が、頭ではわかっても素直に気持ちは簡単には変えられないような気がします。

 

でも、「怒りは破壊をもたらす」が強烈に響いたので、その言葉を胸にこれから怒りと向き合っていこうと思いました。

 

 

 

春を喜べない感覚から思ったこと

明日は立春です。暦の上では春です。

日差しも強くなって、日も長くなってきました。

本当にもう春が目の前にきていることを感じています。

 

でも、なんか春がくる喜びを感じないんです。

 

いつもなら、雪が降り積もっている中で、立春を心待ちにするのですが、今年は雪がほとんどなくて暖かく、冬という感じがしないまま終わりそうだからです。

 

雪深い冬に、ブーツや長靴ではなくスニーカーで歩けるなんてことは、これまでの人生でなかったと思います。

この冬は過ごしやすくて助かったのですが、一方で春を迎える気持ちがこうも盛り上がらないとは思いもしませんでした。

 

空は暗く氷点下の中で雪かきに追われる毎日を過ごす冬。3か月近くそんな生活を送っている中で、日差しの暖かさを感じ始めたときの喜び。

 

ふと思いました。もしかしたら人生もそんな感じがいいのかと。

波風立たない人生も平和でいいかもしれないけど、いろんな苦労をしてもそのあとにいいことがあった時の喜びは、生きている実感というか手ごたえを感じられる気がします。

 

苦労や思い通りにならないことがあっても、それが後に生きている喜びや充実感に繋がることだと思えば、今を味わってやろうという気持ちになれるかも・・・

 

と、腰が引けながら思ったりした立春前日でした。

 

 

 

 

 

有機農法の先駆者の言葉から希望をもらいました

有機農法の先駆者の星寛治さんが、昨年12月に88歳で亡くなりました。

1970年代、当時有機農法は前例がなく、試行錯誤の連続で、周りからも冷ややかな目で見られながらも食と農と環境の大切さのために信念を持って取り組み、有機農法を確立された苦労人でした。

そして、消費者である都市との交流を通して、食と農と環境保全の大切さを広く訴えてこられました。

氏の考えに共感した立教大学早稲田大学など首都圏のたくさんの大学教授がゼミ生を連れて農業や農村での暮らしを体験し、食や農や生きることを学んだといいます。

また、氏は地元の町の教育長として長きにわたって、地域教育の発展に尽くされました。

さらには「農民詩人」といわれる文学者の顔も持ち、まるで現代の宮沢賢治のような人でした。

 

そんな星氏の生活を氏の著書を通して知りたいと思い読み始めたところ、私からは想像もできない苦労があるにも関わらず、それを受け入れ、糧として、人生を豊かにしていくという氏の考え方に圧倒されました。

 

器の小さな私には、そのとてつもなく大きな考えを受け止めきれず、ただ唸ることしかできませんでした。

特に響いた言葉を記させていただきたいと思います。

 

「農から明日を読む まほろばの里からのたより」星寛治著(集英社新書 2001年刊行)

以下、著書より引用

(略)・・・しかし、意欲を持って取り組んでも、天候不順や、病害虫や、冷害、旱魃、台風、豪雪などの災害で致命傷を受け、不作に鳴くこともしばしばだった。振り返ると、順風満帆の年などめったになく、いつも困難にぶつかり、喘ぎ喘ぎのり切ってきた年の方が多いことに気付く。また、作柄だけでなく、産物の価格変動に振り回され、さらにはその時々の農政に翻弄され、迷いながら生きてきた足跡が連なっている。

それでも、来年に希望を託し、土の力を信じて、倦まずたゆまず耕す手を休めずにここまで来た。その地道で報われることの少ない労働と、途方もない時間を、私はけっして徒労だとは思わない。自然のめぐみに呼吸を重ね、土に向き合い、生命を育てる営みは、自分の内面を耕す営みに重なり、そのまま心の充実をもたらしてくれる。その意味をかみしめることで、私は人生の背骨を形成してきたのだと思う。というより、生きる根っこを土の中に伸ばすことによって、米一粒ほどの小さな自分という存在を、少しでも確かなものにしたいと考えてきた。農耕生活は、その表現形式でもあった。(以下略)

 

(略)・・・私は、まだやれると思った。百姓になって45年、これまでも幾度となく危機に直面してきた。空前の冷害や旱魃などの異常気象、台風による大災害、病害虫や農政上の失敗による極度の減反、あるいは社会経済の変動や農政に翻弄された場面など、振り返ると枚挙にいとまがない。その深甚なダメージの中から、むくむくと不死鳥のように立ち上がり、ふたたび前方を見つめて歩いてきた。

その根源は何だろうか。それは、百姓が春を予感する力なのだと思えてくる。一年の四季のめぐりの中で育つ生命力。その作物の一生。りんごのような永年作物であれば、数十年の歳月と経歴性。そして、その育ちにかかわる人間の一生。それは、自分の生涯とともに終わるのではなく、子供の代、孫の代へとつながる連続性。その前方に春を透視する力こそが、今、求められているのだと、私は思う。(以下略)

(ここまで引用)

 

いかがでしょうか。

 

自分には絶対できないし、苦労をそんなふうには絶対に思えません・・・

 

星氏の思いの何百万分の1を相似形にして、農業ではない自分の人生に当てはめると、小さな存在である私の人生でも、私なりの豊かな生き方ができるはずだという希望をもらえた気がしました。自分にとっての「春」をまずは考えてみようと思いました。

(わかりにくい表現ですみません)