一言の大切さを知る

ここ数日荒れ模様で急に寒くなり、近くの山が雪景色に変わっています。

インフルエンザも流行ってきています。

私は風邪はひいていませんが、持病の頭痛が続いてちょっとブルーな毎日を送っています。

皆さまお変わりありませんでしょうか。

 

今年の4月からある会社の出先でパートとして働いているのですが、先日本部に書類を届けに行ったとき、心が温かくなる出来事がありました。

 

本部の事務室に入る途中、廊下で一生懸命司会の練習をしている本部の女性職員がいました。

その日にある大きなイベントで司会をするため、挨拶や講師の紹介をする練習をしていたのでした。

 

練習が終わって会場に向かって走りはじめたその職員の後ろ姿に向かって、あわてて「お疲れ様です。今日は一大イベントの司会で大変ですね。頑張ってください」と声をかけました。

 

すると彼女は急に立ち止まって振り向きざま、「あなたはいつも何気なくを声掛けてくれて、とてもうれしく思っているよ。本当にいつもありがとう」と返して、また風のように走っていきました。

 

彼女は急いでいたので、きっと走りながら手を振って応えてくれるのかな、くらいに考えていたので、その一言にハッとさせられました。

そして、じわ~っと心が温かくなってきました。

 

私の方こそ、いつもどうでもいいような軽い一言をかけているだけなのに、思いがけず感謝の言葉を返してもらって、とてもありがたかく思いました。

 

なにげない一言。

 

サラリーマン時代も、コミュニケーションの入り口として一声かけるのが癖になっていました。

特に部下を持ったときは、話しかけられやすくなるようにという思いで、一言声掛けするようにしていました。

 

そのせいかはわかりませんが、ある意味、人とのコミュニケーションはうまくいっていたと思っています。

 

でも、一言の声掛けを改まって感謝されることがなかったので(当たり前ですが)、今回、感謝という言葉にして返してもらえたことで、一言が役に立っていたと知ることができました。

そして何より、自分が思う以上に言葉の力は大きいのだということを知らせれた出来事でした。

 

一言の大切さを知って温かくなった日でした。

 

 

 

 

 

「じゃあもう、がんばらなくていいんじゃないかしら」

古内一枝著 「女王様の夜食カフェ」 『第三話 秋の夜長のトルコライス』より

 

主人公のシャールが発した「じゃあもう、がんばらなくていいんじゃないかしら」

が、強烈に私の胸に響きました。

 

この言葉は、物語中で、発達障害かどうかわからない小学1年生の息子を、なんとか皆と同じ学習や生活が送れるようにと必死に頑張って育ててきた母親未央が、これ以上どうしていいかわからないとドラアグクウィーンのシャールに語ったときシャールが返した言葉です。

 

(以下 P203より抜粋 )

子供のためによかれと思ったことを、全力でやってきた。

100パーセント、否、それ以上にがんばってきたのに。

「でも、もう、これい以上、どうやってがんばったらいいのか分かりません・・・」

未央は深くうつむいて、肩を震わせた。

シャールは黙って未央の話を聞いていたが、やがて、おもむろに口を開いた。

「じゃあもう、がんばらなくていいんじゃないかしら」

「え・・・・・・」

さりげなく告げられた言葉に、未央は思わず顔を上げる。

「目一杯頑張ったなら、もうそれ以上、がんばる必要なんてないのよ」

(以上抜粋)

 

このシーンを読んで、私自身が救われたのでした。

 

3年前、私が仕事を辞めるときのことです。

 

仕事を辞める前まで、限界まで頑張ったつもりでした。

でも、心身に不調がでて、これ以上無理をしたら本当に体がどうしようもなくなるという「直感」が湧き上がっていました。

 

同時に、辞めようとする気持ちに反対するように、自分よりもっともっと大変な思いをして頑張っている人が大勢いるのに、なぜ自分は耐えられないんだとか、自分は途中で逃げるなんて卑怯じゃないのか?など、「自分の弱さ」を責める気持ちがありました。

 

それをいまだに引きずっていました。それが、心に刺さった棘のようにずっと痛みを伴って引っかかっていました。

 

でも、このシャールの一言で、自分を責めるネガティブな気持ちを断ち切ることができたのです。スパッと。

 

そうだ、「自分なりに」これまで限界まで頑張ってきたのではないか。頑張りを人と比較する必要はないんだ。自分が頑張ったと言えるなら、素直に自分の頑張りを認めていいではないか。そして、これ以上は無理だと素直に言い切っていいのだ・・・と心から思えた瞬間でした。

財津和夫さんの「ヒットする曲しない曲の分析」から思ったこと

「じじぃは蜜の味」(財津和夫さんが書かれたエッセイ本(中央公論新社刊))にとても興味深いことが書いてありました。

 

「チューリップ」というバンドのリーダーで、「心の旅」や「青春の影」など数々のヒット曲を作ってきた財津和夫さんが、ヒットする曲としない曲について、それぞれに共通点があると書かれていたのです。

 

財津さん曰く、ヒットする曲は、『私でない私が作った曲』だそうです(いわゆる「降りてきた」という感じでしょうか?)。

 

一方、ヒットしない曲は、『自分が作った』という意識が残った曲だといいます。

特に、自分の音楽知識や市場の嗜好などを加味して作り上げたどこにも欠点がない『現時点での秀作だろう』と自信たっぷりの曲が、なぜかヒットしなかったのだそうです。

 

なぜそうなるのか分析した財津氏の見解が、とっても興味深かったんです。

 

(以下、財津和夫さんのエッセイ「じじぃは蜜の味」⦅P155⦆からの抜粋です)

「この経験から私はある神秘的な結論へ至った。

 『大衆には歌曲の中に魂のようなものを見つけ出す力がある』ということ。さらには人と人の間を行き交う『気』のような存在が、その力にひと役かっている。

 人は嘘っぽいものを嫌い、魂の入ったとでも言うべき作品に感銘する。作品が着込んだ服ではなく、その中身の肉体に触れようとする。服ばかり着飾っても魂の宿らない肉体には誰も興味を抱かない。

 ーーー私のヒットしなかった曲たちは、どれにもそんな共通点がある」

(以上、ここまで抜粋)

 

なるほど・・・

これを日常に当てはめてみると・・・大切な思いを人に伝えるには、心の底からあふれでてくるものを頭のフィルター(自我)を通さないで、ストレートに表現することが大切だということなんですね。

 

財津さん、大切な気づきをありがとうございました!

 

 

そういえば、ふと以前書いたことに通じていることを思い出しました

心を伝えるということ - マッシモのフォーカシングな日々 (hateblo.jp)

(テレビに出演した中学生の演奏に感動したけれども、テクニックに勝る芸大の学生の演奏には感動できなかったという話です。)

 

まさにそういうことなんだな~と思いました。

 

 

蛇足ながら・・・

天才・財津さんの曲と私のブログを関連付けるのは、おこがましいにもほどがあると思いつつ(また、ブログを読んでくださる方を「大衆」などどは少しも思っていないのですが)・・・私のブログにもあてはまるような気がしました。

 

私のブログも、「ああ!」と感じたことについて、その感覚のまま文字にしたときは、読んだ方から「面白かったよ」と言ってもらえることが多かったです。

 

逆に、感じたことを素直に表現しないで、あれこれ頭でひねってこねくり回してかっこつけようとした内容には反応がないことが多かったのです。

 

気まぐれに自己満足的に綴っている私事の記録のブログではありますが、

読んでくださる方と「心の中の大切なもの」を共感しあえて、お互いの人生が深まることができるような記事をお届けするために、財津さんの言葉を肝に銘じなければとと思った次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

茶室の掛け軸が教えてくれたこと

ある茶会に参加してきました。

お茶の作法は全くわからないのですが、作法にこだわらずお茶を楽しんでもらいたいという主催者の説明があったので、気軽に参加してみたのでした。

 

茶室に通されると、真正面に庭園を見渡せる明るい8畳ほどの空間に床の間や茶釜などがあり、日常とは違った落ち着きがありました。

 

座るとすぐ、真横にある床の間の掛け軸が気になりました。

ある書道家の揮毫による「行雲流水」(横書き)の掛け軸が、結界の役割を果たすかのように茶室を俗世間から切り離している感じがしたのです。

 

お茶の先生から、掛け軸について次のような説明がありました。

「『行雲流水』とは、空を行く雲や川の流れの水のように、自然の成り行きに任せ

るという意味で、ものごとにこだわらないということを表しているといわれています」

 

その言葉の意味を表すような自然体の筆の運びに心が洗われる感じがしました。

同時に、自分が思うよりもっと大きな世界の中で生きていることに気づけたような気がしました。

 

おそらく日常の中でこの言葉に出会ったら、その意味を素直に受け取ることはできなかったと思います。

 

きっと、「いやいや、人間には『意志』や『思い』がある。だからこそ人は自分の人生を切り開いていけるのだ。流れに任せたら流されるだけだ」と、反発したと思います。

 

もしかしたら、「そんな当たり前のことを今更」と流してしまったかもしれません。

 

この掛け軸の書は、そんな反発がいかに小さな小さな塵以下のことであるかということを、いや・・・人間の思いは思いとしてありながら、そんな次元を超えたもっと大きな世界にいるということ・・・

また、一見当たり前に思われることが、実は人智を超えたもっと大きな世界のことであるということ・・・

を、教えてくれた気がします。

 

茶室の掛け軸は、静かに深く心に語りかけてくれたような気がしました。

 

 

 

音楽の聴き比べで気づいたこと

一か月前までの暑さは何だったんだろうと思うような肌寒い秋になりました。

ブログ更新が遅れましたが、皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。

 

私は、コロナ後遺症が続いているのに加えて、ここ1か月の寒暖差に体がついていかず、結構しんどい日が続いていました。

おかげさまでやっと最近、体調も少し上向いてきました。

 

先日、地元の大学で開催された市民講座(クラシック音楽初心者のための入門講座)に参加してきました。

 

クラシックの一つの曲について、3人の演奏家の演奏を聴き比べて、みんなで感想をシェアするという講座でした。

 

そこでの気づきを書こうと思います。

 

最初の演奏は、気合を入れて聴きました。

が、なんとなくいい感じか、そうでないかくらいの感想しか持てませんでした。

 

繊細な表現がすばらしいとか、緩急のテンポが感動を呼ぶとか、そんなことは全くわからず、それどころか、好き嫌いの主観的なことでさえ自信が持てない感じでした。

 

それが、2人目、3人目の演奏家と聴き比べていくうちに、最初の人の演奏の評価が深まってくることに新鮮な驚きがあったのです。

 

「評価って相対的なものなんだ」というごくごく当たり前ことに、今更ながら気づいたということなんです(そんなこと何を今更と思われるかもしれません。でも、頭ではわかっていたつもりのことが、腹落ちしたというか、なんかとっても新鮮だったんです)。

 

それは、

自分を知ろうとした時、いくら自分であれこれ考えても雲をつかむような感じで、実感が得られないもののです。

それが、いろんな人との関わりの中で、相対的にわかってくるのだ、という気づきに繋がったからです。

 

一人静かに自分を深く見つめることも、とても大切なことです。

 

でも同時に、人との関わりの中で、さらに大きく考えると、社会の中での自分を客観視することによって、自分を立体的に理解できるようになるのだな~ と今更ながら思い至ったのです。

 

皆さんにとっては当たり前のことかもしれませんが、茂木健一郎氏のいう「アハ体験」(ちょっと古いですが)をしたもので、つい書きたくなってしまいました。

 

 

ちなみに、曲のひとつは、ベルリオーズ幻想交響曲の第4楽章でした。

それを、小澤征爾、チェルビダッケ、シャルル・ミュンシュという名指揮者による聴き比べ。

ベルリオーズは食わず嫌いで聴いたことがありませんでしたが、先生の解説を聞いて興味を持ちました。

また、人によって感じ方が違い、また好みも分かれるのも面白かったです。

まさに「みんな違ってみんないい」ですね❗️

 

 

 

 

 

 

 

自分を見つめる機会とその意味を与えてくれる本

9月も半ばになるというのにまだまだ暑い日が続いていますが、お変わりありませんか?

この暑さで気持ちは夏のままですが、もの悲しさを含んでいる日差しや、夕暮れの速さからすでに秋になっていることを知らされます。

おまけに、テレビのコマーシャルでは、スタッドレスタイヤの宣伝やなべ物の宣伝が入るようになりました。秋を飛んで冬を感じざるを得なくなっています。

 

「読書の秋」でしょうか、最近は冷房の効いた部屋で本を読む時間が増えています。

今日は、静かながら心の中に大きな足跡を残してくれた本との出会いを書きたいと思います。

 

昔読んで感銘を受けた本が、このたびAmazonkindleで大幅に増補改訂されて新たに発売されたと聞いて早速購入しました。

 

改めて読むと、新たな気づきや心の琴線に触れる言葉に出会いました。

そして何より、久々に自分を深く見つめる機会を与えてもらいました。

これからも読み続けていかなければならない大切な本だと思いました。

 

その本は、「祈りの言葉」(青山圭秀 著)です。

Amazon.co.jp: 祈りの言葉 (青山圭秀 BLUE BOOKS) eBook : 青山 圭秀: 本

 

 

私は普段日常の雑多なことにかまけてゆっくり自分を見つめる機会がほとんどありません。

このブログのタイトル「フォーカシングな日々」に偽りありの日々を過ごしています・・・(すみません)

ブログを書く時が唯一自分に向かう時間ですが、内に向かって書くことが単なる自己満足で終わっていないか、単なるストレス解消になっていないのか・・・と反省する部分もありました。

 

それが、今回この本を読みながら、本当の意味での自分を見つめる機会とその意味が得られたと感じました。

深く自分を見つめていくと湧き上がってくるのが「祈り」なのだと気づかされました。

 

この本を読む前は、「祈り」と言われても、無宗教の私には縁遠い言葉でしかありませんでした。

自分にとっての「祈り」とは、初もうでの時に神社でする個人的なお願いや、どうしようもないピンチに見舞われた時の神頼みのようなことでしかありませんでした。

自分にとって都合のいい「祈り」でしかなかったのです。

 

この本では、そんな個人的な祈りをも含めて、その先にある「祈り」とはどういうことかを、古今東西の祈りの言葉を引用して著者の解説やエッセイを添えてわかりやすく書かれています。

「祈り」はそれ自体を目的化することではなく、自分を深く見つめたその先にある行為なんですね。

「祈り」の意味と大切さが伝わってくると同時に、自分にとっての祈りを考えざるを得なくなりました。

 

著者は前書きで、

「(途中省略)祈りという行為の核心に触れる言葉が、必ず、このなかにいくつかある。

そのいくつかを、見つけてほしい。さらにそれを咀嚼して、自分にものにしてほしい。そうすることで人生が変わっていくのを体験してほしい。」

と書いています。

 

あわただしい日常の中で、ふと立ち止まって何度もこの本を読み返して内省していくうちに、いつしかその本の中の言葉が自分のものとなっていくのだと思います。

そして、そこから、本当の人生の意味がわかってくるのではないか・・・と感じました。

「夜の蝉」を聴いて・・・

残暑お見舞い申し上げます。

 

まだまだ夏の暑さが続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

 

こちらは昼は暑いものの、すでに1週間ほど前から夜になるとコオロギが鳴いています。

ギラギラ差し込む太陽の光の中に、少しもの寂しげな光が混じるようになっています。

空気も少し透明な感じがするようになりました。

秋はすでにやってきているんですね。

 

そんな秋を感じはじめる中で、近くの公園では夜でもまだ蝉が鳴いています。

 

まだ夜に蝉が鳴くんだなと思っていたところ、偶然にも昨日の夜、NHKFMラジオから角松敏生の「夜の蝉」が流れてきました。

曲と歌詞が心に沁みて久々にボロボロ泣きました。

 

特に、次の歌詞が、曲調とあいまって、なんか・・・なんか・・・心の奥まで響いたんです。

 

「夜の蝉が歌う

限りのあることが

どんなに大切なことなのか

さぁ 僕等に残された時を抱きしめたら

羽ばたこう 短い夏が始まる」

 

「聞こえるだろう?

夜の蝉が鳴いている

僕はここにいるよと

力の限り鳴き続けている

ねぇ 残された時間をただひたすら生きて

命の尽きるまで羽ばたくのだと」

 

本当はこのブログのタイトルのとおり、この‘‘なんか心に深く響く感じ‘‘をフォーカシングすべきなのでしょう…

実際にいろんな思いや考えが交錯しています。

 

でも、まずはじっくりと味わってみようと、朝から昔買ったCDを引っ張り出して何度も繰り返し聴いています。(角松敏生アルバム「NO TURNS」)

 

味わい尽くしてから、ゆっくりフォーカシングしてみようと思います。

 

皆さまの心にも響いてくれると嬉しいです!

(好みの問題なので強制してはいけませんが・・・)

 


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