最高と思った先に・・・

ジメジメした梅雨が続いています。身体がだるく感じます。

みなさん、いかがお過ごしでしょうか。

 

梅雨の真っ只中にあって、久しぶりに晴れ間が覗いた夕方のことです。

2階のベランダから見える西の山々の北側の斜面が、北西に沈む夕日に照らされて美しく浮かび上がっていました。普段見るのとは違った角度の立体感が新鮮でした。

金色の光の粒子が山々の緑に反射して美しく輝いていました。

 

最高!その美しさにしばらくの間ひたっていました。

 

ふと振り返って反対の東の山々を見ると・・・

雨上がりの澄んだ空気のせいで、夕日を「全身」で浴びた山々が、ものすごい迫力で迫ってきたのです。木が一本一本が区別できるくらいに輪郭がクッキリ浮かび上がって、山全体が輝いて見えたのです。

 

その迫力と美しさが見たばかりの西の山々の景色の感動を一気に飲み込んでしまいました。

 

ふと思いました。

「もしかしたら、自分が最高と思ったことも、視点を変えればもっと素晴らしいことに出会えたりするのかもしれない」と。

 

「『最高』に満足せずに、欲を出してもっとほかを見てみる」ということではなくて、「最高と思ったことを素直に受け止めつつそれを絶対視せず、別の視点を持つ心の余裕を持つことも必要なのかもしれない」と思ったのです。

 

さらに、「自分の意識や認知を超えたところに、本当にいいものがあるのかもしれない。自分が気づいていないだけで(もしかしたらすでに出会っていて気づいていないだけかもしれない)。それを受信するためにも心の余裕は必要だろう」なんてちょっと大げさに考えたりもしました。

 

みなさんにとって、最高の出会いや発見はどんなことですか?

ルオーの絵を通して教えられたこと

ようやく梅雨入りしました。

さっそくジメジメした日が続いています。

どんよりした雨雲に気分も少々ダウンぎみです。

みなさんはいかがでしょうか?

 

先日のNHK教育テレビ「日曜日美術館」でルオーの絵について解説していました。

番組の中で、科学者でルオーの絵が好きだという福岡伸一氏の解説になるほどと思わされたことがあったので書こうと思います。

 

福岡氏が、ルオーの「聖顔」という作品の描き方の説明をとおして、現代社会への警鐘に結び付けて説明しているところがとても響いたのです。

 

どのような内容かというと・・・

(私が勝手に解釈した内容なので、福岡氏の発言と一致していないことをご了承ください)

 

「ルオーの絵の『聖顔』は、反射光ではなく透過光を通じて描いているところに特徴がある。

反射光のようにルッキズムやスポットライトが当たっているものを見るというような外見的なものの見方をするのではく、透過光による公平な光にさらされることによって内側にあるものをつかみとっている。

反射光による見方では物事の本当の姿は見えてこないのだ」

 

この絵についての解釈を、今の現代社会の視点の問題に結び付けて次のように説明しています。

 

「今のネット社会は、反射光によるものの見方をしている・・・ルッキズムやスポットライトが当たっているものを見るといった・・・表層的なものの見方をしている。これではものごとの本当の姿は見えない。

透過光を通して、等しく映し出されたものを見る時、はじめてみえるものがある。それは本当のものである。ネット社会の今こそ、等しく照らし出された世界を見るべきである」

 

以上、私が受け取った福岡氏の言葉の趣旨です。表現が正しくないことをご了承いただければと思います。

いかがでしょうか?

 

いつもネットなどの情報でわかったつもりになっている自分が恥ずかしくなりました。

今は情報が溢れていていつでも誰でも簡単に手にいれられるようになっているけれど、その情報が一面的な見方ではないのかと疑いつつ、常に等しく大きな視点から情報をとらえるようにしなければならないと教えられた気がします。

安易に分かったつもりになってはいけなんですね。

 

 

 

「機会がありましたらよろしくお願いします」の意味

各地で梅雨入りしていますね。みなさんのところはいかがですか?

こちらはもう少し先になりそうです。

 

 

先日、以前働いていたときの後輩A氏と2年ぶりに会いました。

 

A氏とは20年近く前に職場が一緒でした。

部署は違っていましたが、フロアが一緒で顔を会わせるうちに親しくなって、仕事や趣味のことを話し合うようになりました。

私が退職してからも、1年に1度は会って近況報告をしあっていました。

私が仕事を辞めてからは、A氏の仕事での不満や不安を聴くことが多くなりました。

 

そのA氏と2年ぶりに会ったのですが、A氏の仕事の不満と不安を聴いているうちに

これまでのような「話の密度感」がないような感じがしました。

「話の密度」・・・抽象的な表現ですみません。

お互いの会話の濃さ・・・真剣度というか熱さというかお互いにグッとくる感覚というか・・・

話の中身はこれまでとそう変わらなく、私はいつものように共感しながら聴いたり、自分の経験からの考えを伝えているつもりでした。

でも、なんとなくいつものような熱さが自分自身の中にないような気がしました。

A氏にもその感覚が伝わったのかもしれません。物足りなさを感じてしまっていたのかもしれません。

 

相乗効果の逆ので、微妙な熱さの低下加減で、お互いに微妙な距離感が生まれてしまった気がしたのです。

お互いの間に隙間があるようなスースーした違和感が生まれたのです。

 

結局、カフェで2時間話しましたが、以前のような会話の充実感がありませんでした。

お互いに「話した」「話せた」という感じが不完全燃焼に終わってしまったのです。

 

A氏から、会った後のLINEには「機会がありましたらまたよろしくお願いします」とありました。

 

「機会がありましたら」って、急に他人行儀な言い方をするな~と思いました。

が、「もう積極的に会って話をする関係ではありません」ということだと理解しました。

 

仕方がないと思いつつ、長い付き合いがまた一つ終わったのだなと思うと、虚しいような寂しいような感じがしました。

 

皆さんには、長いつきあいのあった友人と縁がなくなったことはありますか?

そのとき、どんな気持ちになりましたか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生に意味などない・・・?

また急に暑くなりましたね。

今日も30度を超えてエアコンがないと暮らせませんでした。

みなさんのところはいかがでしょうか?

 

今日、家で書類を整理していたら、2年前の新聞の切り抜きがでてきました。

2024年5月7日の読売新聞の「人生案内」です。

「自分に何の価値がある?」というタイトルの相談でした。

2年ぶりに読んでみると、哲学者の小川仁志の回答が想定外だったので抜粋して掲載させていただこうと思いました。

 

以下、その記事の抜粋です。

「自分に何の価値があるのかわからないし、みんながいったい何のために生きているのかもわかないというお悩みですね。

 つまりこれは『生きる意味』についての問いだと思うのです。その答えはたくさんあると思いますが、少なくともこの問いのせいで苦しんでいるとするなら、ルーマニアの哲学者シオランの考えを参考にしてみてはいかがでしょうか。

 シオランは、人生に意味などないといいます。いやそれどころか意味などあってはならないとまで言うのです。なぜなら、もし人生に意味があって、誰もがそれを求め、実現しないといけないとすれば、苦痛になってしまうからです。

 むしろ人生には意味などないからこそ、私たちは自由に生きられるというわけです。その証拠に、人生の意味を求める人は皆苦しんでいます。多くの人はそうやって苦しみながら生きているのでしょう。

 相談者は、意味もなく最低限の生活ができればいいといわれています。本気でそう思えるなら、それが一番楽で自由な生き方になり得ます。方法は簡単です。自分の考えに自信を持つことだけです。人生に絶対正しい生き方などないのですから。」

(ここまで抜粋)

 

どうでしょうか?

「こうくるか?」って回答だと思いませんか?

 

 私自身、20年いや正確には40年以上前から、人生の意味、生きる意味について悩んでいました。

 10年近く前に、ビクトール・フランクルの「人生には意味がある」、「人間は、人生から問われている」という趣旨の考え方に出会い、目を覚まさせられた感じがしました。

そこから、自分の人生が動き出した感じがします。

 

ところが、この人生案内の答えは全く逆で、人生に意味などないと言い切っているのです。

 

今回、この回答を読んで、「そうきたか!」と思いつつも、時間がたってくると「確かにこれもありだな~」なんて軽くゆるく思ったりしたのでした。

 

みなさんはどう感じられましたか?

 

深い問題ではあるので、機会があれば、ここをもう少し自分の中で掘り下げてみようと思います。

 

ではでは。

感じ方が気分で変わること

最高気温が30度を超える暑さから翌日は10度代に下がり、また30度を超る・・・

毎日気温差が大きいですが、みなさまおかわりありませんか?

着るものも大変ですが、体が追いついていきません。

 

前回のブログで、運転中にラジオから流れたシャンソンに感動した話を書きました。

今回も、音楽について感じたことを書こうと思います。

 

朝の通勤の運転中に、FMラジオから軽快なリズムのロックが流れてきました。

初めて聴く曲でした。

ドラムとギターが重なってタイトでクッキリカッチリしたリズムを元に曲が流れていきます。

爽快でノリノリになりました。

 

もう一度聴きたくなり、家に帰ってすぐにHPでその曲名と奏者を調べました。ネットでCDを注文しました。

 

2日後に届いたCDをワクワクしながらかけると…

アレレ?運転中の時のノリがまったく感じられません。間違ったCDを買ってしまった?と心配になりました。

 

確認しましたが、間違いありません。

あんなにクッキリと刻むリズムが心に刺さったのに…

あのノリは何だったのか?というくらい別物に感じたのです。

 

気分でこんなにも感じ方が違うのかと驚きました。

(ちなみに、スラッシュの「ボーン・アンダー・ア・バッド・サイン」という曲です)

 

そんなことを感じたある日。

仕事で嫌なことがあった晩、ふとマル・ウォルドロンの「レフト・アローン」が聴きたくなりCDをかけました。

 

ジャッキー・マクリーンの切なくもの悲しげなアルトサックスが、落ち込んだ心と重なってシミました。

何度も聴きなおし、しみじみと味わいました。明日もゆっくり味わおうと楽しみにしました。

 

翌日、同じものを聴いてみると…

アレレ?いいんだけど、今日は心にシミない…昨日は哀愁の海にどっぷり浸かった感じだったのに。

 

2度も続けて、短時間のうちにこんなに感じ方が変わるのか?と今更ながら思いました。

 

ここで、逆に感じたことがありました。

自分の気持ちや気分って、かくも揺れ動いているのだと。

 

自分では一定のつもりでいるけど、毎日揺れ動いているものなんですね。

曲の感じ方をとおして気づかされたのでした。

 

 

 

 

 

 

歳をとることも悪くないと感じたこと

山々の新緑が黄緑色から深緑に変わりました。

風薫る季節ですね。

この爽やかで気持ちが前向きになれるこの時期が1年で一番好きです。

 

連休はいかがでしたか?

 

今日は、歳をとるのも悪くないと感じたことを書こうと思います。

 

先日車を運転していた時、ラジオからシャンソン歌手の金子由香利さんの「時は過ぎてゆく」が流れてきました。

しっとりとした大人の味わいの歌声と、「時の流れ」を感じさせる曲調と歌詞に思わず聴き惚れてしまいました。

心にじーんと響きました。

 

この曲は、30年ほど前に職場の先輩が、「若いうちにこそこのアルバムを聴いおくといいよ」と金子由香利BESTアルバムのCDを貸してくれて聴いたことがあったたのです。

当時の私は、ロックやJAZZが好きでシャンソンは聴いたことがありませんでした。

 

初めて聴くシャンソンは新鮮でキレイで耳に優しくいい感じとは思いましたが、さらに踏み込んで聴こうとまでは思いませんでした。

それ以来聴いたことがありませんでした。

 

30年後、久しぶりに思わぬ形で「時は過ぎてゆく」と再会してみると、しみじみと心に迫ってくるいい歌だと感じられたのです。

 

歳を重ねて酸いも甘いも知る(それほど知っている訳でもありませんが・・・)大人になったからこそ深くその良さを味わえたのだと思いました。

 

歳をとるというというと、体力の衰えや記憶力の低下など、とかくネガティブに考えがちですが、心の豊かさが増していくというポジティブな面に気づきました。

 

あの時シャンソンを聴いてみるよう勧めてくれたK先輩に感謝しつつ、K先輩は元気かなと思ったのでした。

 


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日向と日陰から思ったこと

風薫るいい季節になりました。

こちらは、近くの山々の新緑と遠くの山々の残雪の白が青い空のもとで輝いて見えます。とっても好きな季節です。

みなさんのところはいかがでしょうか?

 

ゴールデンウイークですね。ゆっくりなさっていますか?

私のゴールデンウィークは今日明日明後日の3日です。が、何の予定もありません。

 

今日は、日向と日陰から思ったことを書こうと思います。

 

先日早朝、外のポストに新聞をとりに行ったときのことです。

我が家の小さな庭でチューリップが太陽の光を浴びて光っていました。花も葉もツヤツヤに輝いていました。光と輝きに心が明るくなりました。

 

一方、ポストのある塀の日陰の方に目をやると、ジメジメしてドクダミやシダなど暗がりを好む植物が茂り始めて一層暗さを増していました。

 

この対照的な庭の様子を見たとき「陽気と陰気」という言葉が浮かびました。

 

明るいところは明るい雰囲気が増していき、暗いところはさらに暗く淀んでくる。

これは、まるで人の心のようだと。

 

そう思ったのも、ある職場での出来事を思い出したからです。

 

かつて、職場に年中愚痴とネガティブな言葉ばかり発している人がいました。

隣にいた私は、かかわりたくないと思いつつも、常に語りかけられるネガティブな言葉に引きずられて毎日滅入っていました。まわりの人も近寄ってきませんでした。暗く重い空気で押さえつけられているような毎日でした。

 

人事異動で、その人がほかの部署に移り、後任に真逆な超ポジティブで明るくハキハキした人がやってきました。

とたんに明るさが波紋のように広がって、職場全体の雰囲気が明るく変わりました。

これまでの淀んだ重苦しい雰囲気が一気に太陽の日差しを浴びたように明るくなったのです。

私も顔を上げて仕事ができるようになりました。

 

庭の陰陽を見たときに、職場での出来事がよみがえったのでした。

「ひとりの心持ちでこんなにも全体の空気が変わる」。

 

もちろん暗いからダメというのではないのです(私は暗いのも好きですし、必要な部分でもあると思うので)。

ただ、働くときは少しでも明るく前向きにいられたらと思っていたのです。

 

明るく人と接していると、周りも明るく気分よくいられる。

暗くしていると、暗さと重さが増してしまう。

庭を見て改めてそう思ったのでした。