音楽の聴き比べで気づいたこと

一か月前までの暑さは何だったんだろうと思うような肌寒い秋になりました。

ブログ更新が遅れましたが、皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。

 

私は、コロナ後遺症が続いているのに加えて、ここ1か月の寒暖差に体がついていかず、結構しんどい日が続いていました。

おかげさまでやっと最近、体調も少し上向いてきました。

 

先日、地元の大学で開催された市民講座(クラシック音楽初心者のための入門講座)に参加してきました。

 

クラシックの一つの曲について、3人の演奏家の演奏を聴き比べて、みんなで感想をシェアするという講座でした。

 

そこでの気づきを書こうと思います。

 

最初の演奏は、気合を入れて聴きました。

が、なんとなくいい感じか、そうでないかくらいの感想しか持てませんでした。

 

繊細な表現がすばらしいとか、緩急のテンポが感動を呼ぶとか、そんなことは全くわからず、それどころか、好き嫌いの主観的なことでさえ自信が持てない感じでした。

 

それが、2人目、3人目の演奏家と聴き比べていくうちに、最初の人の演奏の評価が深まってくることに新鮮な驚きがあったのです。

 

「評価って相対的なものなんだ」というごくごく当たり前ことに、今更ながら気づいたということなんです(そんなこと何を今更と思われるかもしれません。でも、頭ではわかっていたつもりのことが、腹落ちしたというか、なんかとっても新鮮だったんです)。

 

それは、

自分を知ろうとした時、いくら自分であれこれ考えても雲をつかむような感じで、実感が得られないもののです。

それが、いろんな人との関わりの中で、相対的にわかってくるのだ、という気づきに繋がったからです。

 

一人静かに自分を深く見つめることも、とても大切なことです。

 

でも同時に、人との関わりの中で、さらに大きく考えると、社会の中での自分を客観視することによって、自分を立体的に理解できるようになるのだな~ と今更ながら思い至ったのです。

 

皆さんにとっては当たり前のことかもしれませんが、茂木健一郎氏のいう「アハ体験」(ちょっと古いですが)をしたもので、つい書きたくなってしまいました。

 

 

ちなみに、曲のひとつは、ベルリオーズ幻想交響曲の第4楽章でした。

それを、小澤征爾、チェルビダッケ、シャルル・ミュンシュという名指揮者による聴き比べ。

ベルリオーズは食わず嫌いで聴いたことがありませんでしたが、先生の解説を聞いて興味を持ちました。

また、人によって感じ方が違い、また好みも分かれるのも面白かったです。

まさに「みんな違ってみんないい」ですね❗️

 

 

 

 

 

 

 

自分を見つめる機会とその意味を与えてくれる本

9月も半ばになるというのにまだまだ暑い日が続いていますが、お変わりありませんか?

この暑さで気持ちは夏のままですが、もの悲しさを含んでいる日差しや、夕暮れの速さからすでに秋になっていることを知らされます。

おまけに、テレビのコマーシャルでは、スタッドレスタイヤの宣伝やなべ物の宣伝が入るようになりました。秋を飛んで冬を感じざるを得なくなっています。

 

「読書の秋」でしょうか、最近は冷房の効いた部屋で本を読む時間が増えています。

今日は、静かながら心の中に大きな足跡を残してくれた本との出会いを書きたいと思います。

 

昔読んで感銘を受けた本が、このたびAmazonkindleで大幅に増補改訂されて新たに発売されたと聞いて早速購入しました。

 

改めて読むと、新たな気づきや心の琴線に触れる言葉に出会いました。

そして何より、久々に自分を深く見つめる機会を与えてもらいました。

これからも読み続けていかなければならない大切な本だと思いました。

 

その本は、「祈りの言葉」(青山圭秀 著)です。

Amazon.co.jp: 祈りの言葉 (青山圭秀 BLUE BOOKS) eBook : 青山 圭秀: 本

 

 

私は普段日常の雑多なことにかまけてゆっくり自分を見つめる機会がほとんどありません。

このブログのタイトル「フォーカシングな日々」に偽りありの日々を過ごしています・・・(すみません)

ブログを書く時が唯一自分に向かう時間ですが、内に向かって書くことが単なる自己満足で終わっていないか、単なるストレス解消になっていないのか・・・と反省する部分もありました。

 

それが、今回この本を読みながら、本当の意味での自分を見つめる機会とその意味が得られたと感じました。

深く自分を見つめていくと湧き上がってくるのが「祈り」なのだと気づかされました。

 

この本を読む前は、「祈り」と言われても、無宗教の私には縁遠い言葉でしかありませんでした。

自分にとっての「祈り」とは、初もうでの時に神社でする個人的なお願いや、どうしようもないピンチに見舞われた時の神頼みのようなことでしかありませんでした。

自分にとって都合のいい「祈り」でしかなかったのです。

 

この本では、そんな個人的な祈りをも含めて、その先にある「祈り」とはどういうことかを、古今東西の祈りの言葉を引用して著者の解説やエッセイを添えてわかりやすく書かれています。

「祈り」はそれ自体を目的化することではなく、自分を深く見つめたその先にある行為なんですね。

「祈り」の意味と大切さが伝わってくると同時に、自分にとっての祈りを考えざるを得なくなりました。

 

著者は前書きで、

「(途中省略)祈りという行為の核心に触れる言葉が、必ず、このなかにいくつかある。

そのいくつかを、見つけてほしい。さらにそれを咀嚼して、自分にものにしてほしい。そうすることで人生が変わっていくのを体験してほしい。」

と書いています。

 

あわただしい日常の中で、ふと立ち止まって何度もこの本を読み返して内省していくうちに、いつしかその本の中の言葉が自分のものとなっていくのだと思います。

そして、そこから、本当の人生の意味がわかってくるのではないか・・・と感じました。

「夜の蝉」を聴いて・・・

残暑お見舞い申し上げます。

 

まだまだ夏の暑さが続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

 

こちらは昼は暑いものの、すでに1週間ほど前から夜になるとコオロギが鳴いています。

ギラギラ差し込む太陽の光の中に、少しもの寂しげな光が混じるようになっています。

空気も少し透明な感じがするようになりました。

秋はすでにやってきているんですね。

 

そんな秋を感じはじめる中で、近くの公園では夜でもまだ蝉が鳴いています。

 

まだ夜に蝉が鳴くんだなと思っていたところ、偶然にも昨日の夜、NHKFMラジオから角松敏生の「夜の蝉」が流れてきました。

曲と歌詞が心に沁みて久々にボロボロ泣きました。

 

特に、次の歌詞が、曲調とあいまって、なんか・・・なんか・・・心の奥まで響いたんです。

 

「夜の蝉が歌う

限りのあることが

どんなに大切なことなのか

さぁ 僕等に残された時を抱きしめたら

羽ばたこう 短い夏が始まる」

 

「聞こえるだろう?

夜の蝉が鳴いている

僕はここにいるよと

力の限り鳴き続けている

ねぇ 残された時間をただひたすら生きて

命の尽きるまで羽ばたくのだと」

 

本当はこのブログのタイトルのとおり、この‘‘なんか心に深く響く感じ‘‘をフォーカシングすべきなのでしょう…

実際にいろんな思いや考えが交錯しています。

 

でも、まずはじっくりと味わってみようと、朝から昔買ったCDを引っ張り出して何度も繰り返し聴いています。(角松敏生アルバム「NO TURNS」)

 

味わい尽くしてから、ゆっくりフォーカシングしてみようと思います。

 

皆さまの心にも響いてくれると嬉しいです!

(好みの問題なので強制してはいけませんが・・・)

 


www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

コロナに振り回される

先日、家族がコロナに感染しました。

 

私は、熱はないものの、のどの痛みと頭痛と倦怠感があったので、先日かかりつけ医や近くの診療所に診てもらいたいと電話で問い合わせました。

しかし、どこもかなり混雑していて、感染の可能性のある患者は受け入れられないと断わられました。

(家族が夜間診療所に行ったときも相当コロナに感染している人がいるようで、待機する車で溢れかえっていたそうです。)

 

役所のコロナ相談窓口に電話をしたところ、お盆休みに入り開いている医療機関が少ないこともあり非常に込み合っているので、その程度の症状なら自宅で様子を見るように言われました。

感染しているか心配ならば、薬局で売っている抗体検査キットで検査せよとのこと。

 

早速薬局で買って検査したところ、陰性でホットしました。

が、本当に?と疑ったりして・・・

 

陰性だったことを職場に報告して、いつから出勤していいか尋ねました。

職場ではすでに来週まで私がいなくてもいいようにシフトを組んでいるので、来週いっぱい休んで様子をみるように言われました。

 

職場に迷惑をかけて申し訳ないと思いつつ、日雇いの身分なので休んだ分収入がなくなるのが非常に非常に痛く・・・

正規職員は有給休暇をとれるのに・・・と恨めしく思ったり。

 

また、先日父親が手術のために入院したばかりだったのですが、病院からは家族にコロナ感染者がいる場合は面会はできないと言われ(当たり前ですが)、当分誰も面会にも行けず・・・

 

ちなみに、コロナに感染した家族は、40度近い熱が続き、咳と喉の痛みがひどいのですが、解熱剤と咳止めの薬という対処療法しかなく、非常に苦しい思いをしています。

私は何もしてやれることがなく、ただおろおろしながら見守っているだけです。

 

コロナが5類に移行されたとはいえ、症状が軽くなっている訳でもなく、一方で診療が不自由になっているように感じました。

また、濃厚接触者という定義がなくなったので外出自粛は求められないにもかかわらず、厚労省が定める基準がないため、今回のように職場の判断によって、かえって仕事復帰がしにくくなりました。

 

コロナに翻弄されています。

コロナと厚労省が恨めしいです。

 

(グチになってしまいました。申し訳ありません)

 

 

 

 

 

気持ちは文章に表れる

 

暑中お見舞い申し上げます。

異常な猛暑が続く夏ですがお変わりなくお過ごしでしょうか。

 

暑い時は家で本を読むに限るということで、
先日、かつてミュージシャンだった人が書いた本を読みました。

 

内容は、オリコンで1位を獲るほど活躍していたミュージシャンが、ある日突然声が出なくなる病気になってしまい、歌手を辞めてどう人生を切り開いていったかという話でした。

 

自暴自棄になりながらも友人や家族の支えがあり、自分を取り戻すことができて、そこから新しく生きるために努力していく・・・というストーリーに引き付けられました。

 

歌えない自分がこれからどうやって生きていくか。家族もいて家も建てたばかり。

これまでのプライドを捨てて、冷静に自分が好きなこと・得意なこと・求められていることは何かを突き詰めていく。

 

その結果、好きな音楽にかかわり続けるために音楽イベントのプロデュースをしたり、寂れつつある地域をなんとかしたいという気持ちから行政を巻き込んで地域おこしの活動をしたりすることになりました。

どちらも大成功してたくさんの「ありがとう」をもらいながらさらに発展しているという話でした。

 

とても感動する人生・・・なのに、心にほとんど響いてきませんでした。

熱い人のはずなのに、本からはその熱が全く伝わってこないのです。

 

どうして?

この本を本人が書いていないからだと思います。

 

勝手に判断してはいけないとは思うのですが、かつてよくあった芸能人が書いた本(いわゆるゴーストライターが書いた本)と文体がそっくりで、型にはめて完成させたという感じがしました。

 

目の前に名作の油絵があるのに、あえてカラーコピーしたものを鑑賞している感じ。

 

とてももったいないと思いました。

が、今回、文章は単なる情報を伝えるだけではなく、その人の心を乗せるものなのだということを改めてわからせてもらえました。

 

そういうお前の文章はどうなのか?

読んでくださっている方はきっと感じておられるのだろうな・・・恥ずかしくもあり怖くもあり・・・

 

気持ちが乗らない文章を書かないようにしなければと戒めた次第です。

 

 

 

 

 

 

人生の雨の日の過ごし方

先日、友人にLINEで「人生も天気のように晴れの時もあれば雨の時もあるね・・・」とメッセージを送ったところ、友人がこんな素敵なメッセージを返してくれました。

友人の承諾を得たので記載します。

 

「雨の日もあれば、晴れの日もある…本当お天気みたいですね(smile)
ずっと雨の日が続くことはないので、いつか晴れると思うと気持ちが救われわれますね。

そして雨は畑が潤ったり、外に出られないから、身体を休める事ができたり、雨の音をきいていると、不思議と気持ちが落ち着いたり、気持ちの整理ができたりと、嫌な事ばかりではなくて、良い面もありますもんね。」

(ここまで引用)

 

どうでしょうか。

人生の雨の日のとても素敵な過ごし方ですよね。

私の場合、人生の雨の日は恨めしくて嫌だなと感じていました。やり過ごすことだけを考えていました。

 

雨の日は、ジタバタせず、立ち止まり、ゆっくり丁寧に沸き起こる気持ちに耳を傾ける。

そうすると、気持ちの整理ができたり、思わぬ気づきを得たり、成長できたりする。

だからこそ、雨の日は、「自分の心の中を行き来する気持ちをきちんと味わう時間」にしようと思いました。

 

 

蛇足ながら・・・

友人からの言葉が私の胸に響いたのは、その友人が、雨の日にきちんと自分に向き合っているので、言葉の背後にある様々な思いや気持ちが(具体的なことはわかりませんが何かエネルギーのようなうねりを持って)伝わってきたからだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

傾聴で救われる

最近、家族の病気のことや仕事のことで頭がいっぱいいっぱいになり苦しくなってしまいました。

 

私のことをよくわかってくれているAさんにその気持ちをLINEで送ったところ、話を聴かせてくださいとすぐ返信があり、会って話を聴いてもらうことになりました。

 

今のモヤモヤした気持ちをAさんはとても丁寧に聴いてくれました。

気持ちを理解してくれて共感しながら聴いてもらえている感じが心地よくて、何も考えず思うままに話せました。

 

自分の気持ちを言語化することにより、感情を客観的に見つめられるようになっていきました。

さらに、今のモヤモヤしてなんか納得いかないと思っていたことは、過去の出来事が影響していることにも気づけました。

 

ひたすら話し続けて、あっという間に3時間が過ぎてしまいました。

おかげさまで、心にゆとりが生まれ、特に仕事の悩みはすうっと抜けた感じがしました。

傾聴のすばらしさを身をもって経験した時間でした。

 

Aさんはカウンセラーでも傾聴を学んだわけでもないもないのですが、私にとってすばらしい「カウンセラー」です。

Aさんの持つ優しさ、人間としての懐の深さがなせる業だと感じます。

カウンセリングは「人」だと改めて思った次第です。