先日、朝の自転車通勤での出来事。
地下道に入るため自転車を降りた途端、空から突然声が聞こえてきた。
一瞬何が何だかわからなくて、声のする頭上を見上げると、電柱の上で作業する男性が携帯で話をしていた。
びっくりすると同時に原因がわかって気が抜けた。
この出来事をきっかけに30年近く前に起こった出来事を思い出した。
(ここからは少々長くなってしまって・・・個人的な与太話にお付き合いさせるのも恐縮なので、興味を持たれた方のみ読み進めていただければと思います。
個人的な体験なので、もしかしたら変な奴とか、頭おかしいんじゃない?とか、自慢か?と思われるかと心配しています・・・
もしお読みいただいて、出来事ではなく、言葉の意味を一緒に考えていただければありがたいと思います。)
それでは・・・
今から30年近く前、新幹線に乗って東京八重洲のブリヂストン美術館に出かけたときに起こった出来事。
一人だったので、あの出来事が本当だったのか証明のしようがないのだが・・・
当時私は、病気から仕事に復帰して1年経ったものの思うように体力が回復せず焦っていた。仕事は思うように進まず、管理職からは厳しい言葉を浴びて、心身ともに苦しい時期だった。これからいったいどうなるのだろうと不安だった。
気分を変えるために、ブリヂストン美術館で大好きなモネの睡蓮を見れば精神的に支えをもらえそうな気がして、思い切って新幹線に乗って出かけてみた。
久しぶりに見るモネの絵の柔らかな色彩の美しさにときめいて、気持ちも明るくなった。
十分に心が満たされ、出口に向かう途中、ジョルジュ・ルオーの「郊外のキリスト」の絵を目にした。
その瞬間に釘付けになってしまった。モネと対照的な黒を基調とした暗い世界。闇夜に満月が鈍く道を照らし、その道に佇むキリストと思われる人と二人の子供を薄っすらと浮かび上がらせている。
無骨でありながら深い精神性を感じさせるその絵の力に圧倒されて動けなくなってしまった。
じっとキリストを見続けていた。すると、そのキリストが突然語りかけてきた。
「(私は)真実を知るものにのみ語る」と。
周りを見回したが誰もいなかった。空耳なのか、それとも自分の頭がおかしくなったのかと一瞬思った。しかし、その声?の響きが、あまりに荘厳で深く、言葉というよりも「思い」という形で直接魂にすとーんと入ったので、頭で否定する気持ちになれなかった。
それにしても、この言葉の意味が全くわからない。
そもそも私はルオーのことはあまり知らないし、この絵のこともよくわからない。まして、クリスチャンではないのでキリストのことはわからない。
「真実」とは何か。真実を知る者にキリストは「何を」語ろうとしているのか。
戸惑いつつも、この言葉の意味をこれから探っていこうと思った。
以前、ある著名な翻訳家に話をしたところ、「真実」とは「愛」ではないかと教えられた。なるほど!と、その時はわかったつもりになった。でも、どうも心の底から納得できないというかしっくりこなかった。
いまだにあの言葉の意味はわからない。
この意味を探求することとが自分の人生を豊かにすることなのではないかと思い、いつもこの言葉を胸にしまっている。
振り返れば、この出来事を境に私の全く新しい人生が動き出したのだ。
・・・これを書いてからふと田口ランディさんのFacebookを拝読していたら、11月18日の記事に下記のことが書いてあった。体験は違うけど、個人的な体験を書くことがよかったのか心配になった・・・