社会の「役に立つ」ためではない、社会に「お返し」するのだ

遅くなりましたが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

新年早々暗い話でスタートして申し訳ないのですが・・・(後から明るい方向に変わりますので、すみませんがおつきあいください)

 

去年の年末から何故か気持ちが前向きにならず、少々鬱々としていました。

ネガティブ病が頭をもたげて「どうせ自分には何もできないのだ」といじけていました。

 

そんな気持ちのまま、誕生日の元日を迎えてしまいました。

何の手ごたえもないまま、また一つ年を取り、着実に人生が終盤に向かっている現実。無力感と虚無感。

当然「今年はどんな年にしようか」なんて考える気持ちにもなれず・・・

 

そんな時に、図書館でたまたま手に取った本をパラパラめくっていると、

 

「社会の『役に立つ』ためではない、社会に『お返し』するのだ」

という大きな文字が目に飛び込んできました。

 

ドキッとしました。

 

この本の言葉で自分の本心に気づかされたからです。

 

私は「もっと直に人の役に立つことが実感できる仕事をしたい」と思ってサラリーマン生活に終止符を打ちました。その思いでこれからの仕事を考えていました。

 

でも、自分は、本当はこれからの仕事を、人の役に立つことを目的としていたのではなく、単に自分の心を満足させたいがための手段として考えていただけだったということに気づかされたのです。

 

さらに、自分には「感謝」の気持ちが足りなかったことに気づかされました。

振り返れば、これまでいろんな人に支えられ助けられてきました。社会的な環境も恵まれていました。

いろんな方からいただいたご恩に対する感謝、私の知らないところで支えてくれていた方への感謝。自分の思いの及ばないところで、社会を支えてくれている方々への感謝。

これらの方々に対する感謝の気持ちもなく「当たり前」に生きてきました。

 

感謝の気持ちがなかったので当然、「社会に『お返し』する」という発想がありませんでした。

 

そうか、「社会に『お返し』する」んだ。

 

この言葉を胸に入れて感じて味わってみると・・・

 

素直に「全くそのとおりだ」という言葉と、一点の曇りなくどこまでも真っ青に晴れ渡った空が浮かんできました。

 

鬱々とした気持ちが晴れました。

 

改めて仕事を考え直してみようと思いました。

いい一年にしようと思います。

 

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

(最後になってしまいましたが、表題の言葉は、中谷彰宏著「さぁ、会社でもつくろうか」(エムディエヌコーポレーションP192) から抜粋しました)



 

「いつかやろう」は「ばかやろう」

雪が積もり本格的な冬の到来かと思いきや、今週は暖かくなるという予報です。

週単位で寒暖差が繰り返されて、体がついていかなくなっています。

 

皆さまいかがお過ごしでしょうか?

 

このところ後悔することが立て続けに起こり、「『いつかやろう』は『ばかやろう』」というフレーズが心の中から沸き起っています。

 

後悔した出来事はどれも飲食店に関係するのですが(そんな些細なことでと思われるかもしれませんが…)。

 

好きで通っていた飲食店が3件ほどあったのですが、コロナ以降3年近くご無沙汰していました。

どこも自宅から車で10分以内という近所なので、コロナが明けたら行こうと思いつつ行かないままになっていました。

 

最近になって久々に行ってみると、どの店も閉店していました。この時のショックといったら・・・

 

1つ目は、30年くらい前から通っていたクラシック音楽を聴ける昔ながらの喫茶店でした。

マスターがクラシックに対して並々ならぬ情熱を注いでいて、凝ったオーディオで朗々とクラシックを流していました。

時々演奏家を呼んでミニコンサートも開催してくれていました。

地域のクラシック音楽愛好家の拠点で、地域で唯一無二の喫茶店でした。

 

最高の音質で音楽を聴きながらゆっくりコーヒーを飲むひと時(長居をしても怒られず)は、ストレスで汚れた心身を浄化してくれました。

 

残念なことに、高齢だったマスターが今年亡くなったのを機に店を閉めることになったとのことでした。

もっと早く行って、マスターにお礼を言いたかった・・・とても後悔しました。

 

もう一つの店が、手打ち蕎麦がとてもおいしい蕎麦屋さんが閉店していたこと。

店主が手の手術をして蕎麦が打てるようリハビリ中と聞いていたのですが、復帰が叶わず店をたたむことにしたとのことでした。

県外からのお客さんが多すぎて、なかなか地元の人が通いにくくなってしまっていました。小学生の頃から慣れ親しんだ味を味わえなくなると思うと寂しさが募ります。

もっと早く行って味わうべきだったと後悔しました。

 

さらに、古書店カフェが廃業してしまったこと。

ご夫婦で切り盛りする家族的な温かいお店でしたが、高齢を理由に廃業してしまったとのことでした。

 

ブック〇〇のようなリユース店と異なり、純文学、地元の作家のもの、音楽や演劇などマニアックな本がたくさん並んでいる店で、メル〇〇で1冊1万円で売っているような貴重な本が平気で定価の半分で売っているような店でした。

その場にいるだけで、心が満たされるお店でした。

もう一度あの雰囲気をゆっくり味わいたかったと後悔しました。

渡辺貞夫の貴重な本を買いに行こうと思いつつ、買わないまま店が無くなってしまい、それも心残りです。

 

・・・と、個人的などうでもいい後悔の話で申し訳ありません。

 

後悔先に立たず・・・今回の連続の後悔が苦い経験となりました。

「いつかやろう」は「ばかやろう」・・・と深く深く反省した次第です。

 

「いつかやろう」ではなく「思ったら即行動」を肝に銘じたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

GACKTにノックアウトされました

初雪も降り、本格的な冬が迫ってきました。

インフルエンザも流行ってきていますが、いかがお過ごしでしょうか?

 

先日、何の番組か忘れてしまったのですが、テレビに出演していたGACKTの一言にノックアウトされました。

 

GACKT曰く、

「自分がやっている(あげる)から相手がこたえてくれると思うのはエゴ。自分がやりたいからやる」

 

この言葉のインパクトが頭に響きました。

さらに、その言葉を発したときのGACKTのきっぱりとした口調には、全く嘘がなく彼がそのとおりに生きている実感が伝わってきました。

強烈なパンチを食らった感じで、完全にノックアウトされました。

 

ノックアウトされた私は・・・

相手に見返りを求めていないつもりでも、結局心のどこかでこたえてもらえるのでは・・・という気持ちが手放せていません。

意識していないようでいて、実は心のどこかに見返りを待っているんです。

 

自分がやりたいからやる。

GAKTのように言い切れるようになりたいと思いました。

 

 

一言の大切さを知る

ここ数日荒れ模様で急に寒くなり、近くの山が雪景色に変わっています。

インフルエンザも流行ってきています。

私は風邪はひいていませんが、持病の頭痛が続いてちょっとブルーな毎日を送っています。

皆さまお変わりありませんでしょうか。

 

今年の4月からある会社の出先でパートとして働いているのですが、先日本部に書類を届けに行ったとき、心が温かくなる出来事がありました。

 

本部の事務室に入る途中、廊下で一生懸命司会の練習をしている本部の女性職員がいました。

その日にある大きなイベントで司会をするため、挨拶や講師の紹介をする練習をしていたのでした。

 

練習が終わって会場に向かって走りはじめたその職員の後ろ姿に向かって、あわてて「お疲れ様です。今日は一大イベントの司会で大変ですね。頑張ってください」と声をかけました。

 

すると彼女は急に立ち止まって振り向きざま、「あなたはいつも何気なくを声掛けてくれて、とてもうれしく思っているよ。本当にいつもありがとう」と返して、また風のように走っていきました。

 

彼女は急いでいたので、きっと走りながら手を振って応えてくれるのかな、くらいに考えていたので、その一言にハッとさせられました。

そして、じわ~っと心が温かくなってきました。

 

私の方こそ、いつもどうでもいいような軽い一言をかけているだけなのに、思いがけず感謝の言葉を返してもらって、とてもありがたかく思いました。

 

なにげない一言。

 

サラリーマン時代も、コミュニケーションの入り口として一声かけるのが癖になっていました。

特に部下を持ったときは、話しかけられやすくなるようにという思いで、一言声掛けするようにしていました。

 

そのせいかはわかりませんが、ある意味、人とのコミュニケーションはうまくいっていたと思っています。

 

でも、一言の声掛けを改まって感謝されることがなかったので(当たり前ですが)、今回、感謝という言葉にして返してもらえたことで、一言が役に立っていたと知ることができました。

そして何より、自分が思う以上に言葉の力は大きいのだということを知らせれた出来事でした。

 

一言の大切さを知って温かくなった日でした。

 

 

 

 

 

「じゃあもう、がんばらなくていいんじゃないかしら」

古内一枝著 「女王様の夜食カフェ」 『第三話 秋の夜長のトルコライス』より

 

主人公のシャールが発した「じゃあもう、がんばらなくていいんじゃないかしら」

が、強烈に私の胸に響きました。

 

この言葉は、物語中で、発達障害かどうかわからない小学1年生の息子を、なんとか皆と同じ学習や生活が送れるようにと必死に頑張って育ててきた母親未央が、これ以上どうしていいかわからないとドラアグクウィーンのシャールに語ったときシャールが返した言葉です。

 

(以下 P203より抜粋 )

子供のためによかれと思ったことを、全力でやってきた。

100パーセント、否、それ以上にがんばってきたのに。

「でも、もう、これい以上、どうやってがんばったらいいのか分かりません・・・」

未央は深くうつむいて、肩を震わせた。

シャールは黙って未央の話を聞いていたが、やがて、おもむろに口を開いた。

「じゃあもう、がんばらなくていいんじゃないかしら」

「え・・・・・・」

さりげなく告げられた言葉に、未央は思わず顔を上げる。

「目一杯頑張ったなら、もうそれ以上、がんばる必要なんてないのよ」

(以上抜粋)

 

このシーンを読んで、私自身が救われたのでした。

 

3年前、私が仕事を辞めるときのことです。

 

仕事を辞める前まで、限界まで頑張ったつもりでした。

でも、心身に不調がでて、これ以上無理をしたら本当に体がどうしようもなくなるという「直感」が湧き上がっていました。

 

同時に、辞めようとする気持ちに反対するように、自分よりもっともっと大変な思いをして頑張っている人が大勢いるのに、なぜ自分は耐えられないんだとか、自分は途中で逃げるなんて卑怯じゃないのか?など、「自分の弱さ」を責める気持ちがありました。

 

それをいまだに引きずっていました。それが、心に刺さった棘のようにずっと痛みを伴って引っかかっていました。

 

でも、このシャールの一言で、自分を責めるネガティブな気持ちを断ち切ることができたのです。スパッと。

 

そうだ、「自分なりに」これまで限界まで頑張ってきたのではないか。頑張りを人と比較する必要はないんだ。自分が頑張ったと言えるなら、素直に自分の頑張りを認めていいではないか。そして、これ以上は無理だと素直に言い切っていいのだ・・・と心から思えた瞬間でした。

財津和夫さんの「ヒットする曲しない曲の分析」から思ったこと

「じじぃは蜜の味」(財津和夫さんが書かれたエッセイ本(中央公論新社刊))にとても興味深いことが書いてありました。

 

「チューリップ」というバンドのリーダーで、「心の旅」や「青春の影」など数々のヒット曲を作ってきた財津和夫さんが、ヒットする曲としない曲について、それぞれに共通点があると書かれていたのです。

 

財津さん曰く、ヒットする曲は、『私でない私が作った曲』だそうです(いわゆる「降りてきた」という感じでしょうか?)。

 

一方、ヒットしない曲は、『自分が作った』という意識が残った曲だといいます。

特に、自分の音楽知識や市場の嗜好などを加味して作り上げたどこにも欠点がない『現時点での秀作だろう』と自信たっぷりの曲が、なぜかヒットしなかったのだそうです。

 

なぜそうなるのか分析した財津氏の見解が、とっても興味深かったんです。

 

(以下、財津和夫さんのエッセイ「じじぃは蜜の味」⦅P155⦆からの抜粋です)

「この経験から私はある神秘的な結論へ至った。

 『大衆には歌曲の中に魂のようなものを見つけ出す力がある』ということ。さらには人と人の間を行き交う『気』のような存在が、その力にひと役かっている。

 人は嘘っぽいものを嫌い、魂の入ったとでも言うべき作品に感銘する。作品が着込んだ服ではなく、その中身の肉体に触れようとする。服ばかり着飾っても魂の宿らない肉体には誰も興味を抱かない。

 ーーー私のヒットしなかった曲たちは、どれにもそんな共通点がある」

(以上、ここまで抜粋)

 

なるほど・・・

これを日常に当てはめてみると・・・大切な思いを人に伝えるには、心の底からあふれでてくるものを頭のフィルター(自我)を通さないで、ストレートに表現することが大切だということなんですね。

 

財津さん、大切な気づきをありがとうございました!

 

 

そういえば、ふと以前書いたことに通じていることを思い出しました

心を伝えるということ - マッシモのフォーカシングな日々 (hateblo.jp)

(テレビに出演した中学生の演奏に感動したけれども、テクニックに勝る芸大の学生の演奏には感動できなかったという話です。)

 

まさにそういうことなんだな~と思いました。

 

 

蛇足ながら・・・

天才・財津さんの曲と私のブログを関連付けるのは、おこがましいにもほどがあると思いつつ(また、ブログを読んでくださる方を「大衆」などどは少しも思っていないのですが)・・・私のブログにもあてはまるような気がしました。

 

私のブログも、「ああ!」と感じたことについて、その感覚のまま文字にしたときは、読んだ方から「面白かったよ」と言ってもらえることが多かったです。

 

逆に、感じたことを素直に表現しないで、あれこれ頭でひねってこねくり回してかっこつけようとした内容には反応がないことが多かったのです。

 

気まぐれに自己満足的に綴っている私事の記録のブログではありますが、

読んでくださる方と「心の中の大切なもの」を共感しあえて、お互いの人生が深まることができるような記事をお届けするために、財津さんの言葉を肝に銘じなければとと思った次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

茶室の掛け軸が教えてくれたこと

ある茶会に参加してきました。

お茶の作法は全くわからないのですが、作法にこだわらずお茶を楽しんでもらいたいという主催者の説明があったので、気軽に参加してみたのでした。

 

茶室に通されると、真正面に庭園を見渡せる明るい8畳ほどの空間に床の間や茶釜などがあり、日常とは違った落ち着きがありました。

 

座るとすぐ、真横にある床の間の掛け軸が気になりました。

ある書道家の揮毫による「行雲流水」(横書き)の掛け軸が、結界の役割を果たすかのように茶室を俗世間から切り離している感じがしたのです。

 

お茶の先生から、掛け軸について次のような説明がありました。

「『行雲流水』とは、空を行く雲や川の流れの水のように、自然の成り行きに任せ

るという意味で、ものごとにこだわらないということを表しているといわれています」

 

その言葉の意味を表すような自然体の筆の運びに心が洗われる感じがしました。

同時に、自分が思うよりもっと大きな世界の中で生きていることに気づけたような気がしました。

 

おそらく日常の中でこの言葉に出会ったら、その意味を素直に受け取ることはできなかったと思います。

 

きっと、「いやいや、人間には『意志』や『思い』がある。だからこそ人は自分の人生を切り開いていけるのだ。流れに任せたら流されるだけだ」と、反発したと思います。

 

もしかしたら、「そんな当たり前のことを今更」と流してしまったかもしれません。

 

この掛け軸の書は、そんな反発がいかに小さな小さな塵以下のことであるかということを、いや・・・人間の思いは思いとしてありながら、そんな次元を超えたもっと大きな世界にいるということ・・・

また、一見当たり前に思われることが、実は人智を超えたもっと大きな世界のことであるということ・・・

を、教えてくれた気がします。

 

茶室の掛け軸は、静かに深く心に語りかけてくれたような気がしました。